正面から見た創建時の信濃国分寺(僧寺)

僧寺の外郭は、長辺が160メートルの長方形だったらしい。当時としては途方もない大きさだった。

大きな建築物がほかになった時代に、これほどの規模の寺院は、人びとの目にどう映っただろうか。
規模と言い、建築技術と言い、抗いがたい巨大な権威=力の象徴と感じたに違いない。

国分寺のシステムができる以前は、地方では渡来人が伝えた大陸伝来の仏教信仰は、地方豪族が取り仕切る氏族や部族単位の信仰でしかなかった。
ところが、国分寺の創建以降は、仏教は大和王権の宗教となった。国府の統治機能と並んで、仏教と寺院は王権の権威の伝達装置、イデオロギー装置となったわけだ。
それゆえ、平将門など、大和王権に対して叛乱を企てる勢力からすると、攻撃や破壊の対象となってしまうことになる。

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