東福寺をめぐる里歩き旅の案内絵地図

  下の絵地図は、東福寺の里歩き旅を案内する絵地図です。
  旧東福寺村は、明治時代中期の地方行政制度の改革のさいに、上組、中組、下組、上庭、中沢からなる東福寺村が西隣の小森村と合併して拡大された東福寺村となりました。ただし、古くは杵淵村と結びついていた中沢村が東福寺に統合された経緯については、史料がありません。

  上掲の絵地図を素材として、東福寺村の歴史を地形から読み取ってみましょう。
  千曲川水系の歴史や小森の石土手の探索記事で見たように、犀川の扇状地の扇端近くを流れる千曲川は、古代から近代まで反乱を繰り返して頻繁に流路を大きく変えてきました。河道を高い堤防で囲い組む現代の治水技術が施される以前は、勾配が非常に緩やかな平坦地を流れる千曲川は、大雨などでの増水氾濫のたびに流路を変えてきたのです。
  氾濫増水など水系の運動がもたらした地形の上に東福寺の集落群は形成されてきました。南宮遺跡は奈良時代から集落の形成が始まったと見られますが、現在の集落群に直接に結びついたであろう村落群の建設は、場所によって鎌倉中期頃から始まり、室町晩期から戦国時代を経て、江戸時代前期に本格的な開墾と集落建設が進んだものと見られます。 17世紀初頭に北信濃を領した松平忠輝の靡下で松代城代、花井家による犀川水系の改造と川中島の小河川水路の整備事業によって、ようやく無数の小河川が縦横に流れ下る湿地帯を干拓し、大規模な水田を開拓することが可能になったようです。
  さらに――御厨よりも南東側で――本格的な村落建設と開墾が展開するのは、18世紀半ばに松代藩が千曲川の河道改造と川中島の用水路整備をおこなった頃からでした。まず先駆けて(下堰の)東西荒沢堰水路に沿って小森村が形成され、その後を追って(同じく下堰の)戸部堰沿いに上組、中組、下組、上庭の各集落が形成されたと見られます。⇒参考資料【川中島の水路網】
  他方、中沢集落は、平安末期から室町時代までに杵淵氏の後裔の中沢氏によって開村されたと見られます。
  千曲川の洪水でつくられた自然堤防=微高地上に開拓のための道が敷かれた後、この道に沿って農民住戸が建設されていきました。このような道は、上野絵地図でオレンジ色で示してあります。部分拡大図を以下に掲載します。

  上掲の絵地図を素材として、東福寺村の歴史を地形から読み取ってみましょう。
  このような路線の系統を全体として大雑把に眺めると、
@小森村の中央部の道に沿って形成された自然堤防
A真月寺から下組松木を経て上庭まで続く(稲荷街道沿いの)自然堤防
B中組南部の堤防北脇から東区を通って西寺尾に向かう道沿いの自然堤防
という3筋の帯状の微高地が、東福寺の集落群が広がっていく主な経路となったことが読み取れます。
  これらの道路網は、下堰の水路系統に対応したものです。そして、上組、中組、下組という名称は、水田用水の利用権の順番――水路の上流〜下流という流路順――を示していることがわかります。これは、田植えのための水利権を使える時期の順を意味しています。つまり、東福寺の田植えは、上組から下組、さらに中沢へと進んだのです。
  ところで、上庭の多くの水田は戸部堰から分かれた広田堰からの用水を利用しているので、上記の田植えの順から外れている場合もあったようです。用水路系統に関して、上庭とは本来「上堤」――堤とは用水路を意味した――と表記されていたかもしれません。