2019年秋温台風による千曲川氾濫で西岸の長沼は大きな被害を受けました。 とはいえ、長沼には1000年以上も前から先進的な荘園があって、集落群が形成されていました。
  たしかに水害は繰り返されましたが、千曲川本流・主流の流路は今よりもずっと東にあったので、堤防がない時代が続いていたにもかかわらず、壊滅的に悲惨な被害は避けることができたようです。千曲川を溢れた水は相之島よりも東に押し寄せる地形だったようです。


◆小河原の河岸段丘 往古の千曲川の流路を推測する◆



■千曲=犀川水系の大改造工事■


▲水田地帯の水準から南に続く段丘崖擁壁を眺める


▲抽象画家 高津秀太郎美術館は漆喰壁の土蔵が残る豪農古民家

  17世紀初期の松平忠輝の治世で裾花川、浅川、犀川の流路の改造が始まり、それを松代藩が引き継ぎましたが、犀川と合流した千曲川は福島・村山辺りからは幾筋かに分流し、そのうちの大きな流れが小河原の河岸段丘崖を洗っていたのです。そして、こちらが主流になっていた時代も長いと見られます。
  そういう状態が昭和中期頃まで続いていました。ところが、昭和40年代以降、高度成長にともなう耕作地整理や圃場整備によって、現在の河川=農業用水路の体系をつくったため、この一帯の地形と景観はすっかり変わってしまったのです。
  鎌倉時代には、長沼は千曲川本流から2キロメートル以上も離れていたため、長沼は流域では最も安全な自然堤防上(高台)にあって、荘園に属す農耕地・集落群がある場所として、相当に恵まれた位置にあったものと見られます。
  長沼から小河原までの一帯には、千曲川の何本かの分流が並行していたようです。そこには、南北に細長く続く低湿地と小高い河岸丘陵が並行していたのではないでしょうか。
  つまり、長沼の集落群が位置する河岸の丘があり、その東に何列もの低湿地と丘が交互に並び、低湿地を千曲川の分流群が流れ、小河原の河岸段丘崖の下を主流が通っていたということです。
  すると、中世から戦国期までの水内郡と高井郡の境界は、川田~綿内~井上西~村山東~小布施町飯田~北岡を結ぶ曲線――標高342~343メートルの等高線――だったということになりそうです。
  そうすると、武田家と上杉家の川中島の戦いの中心部は、湿地帯が広がっていた現在の川中島ではなく、くしろ長沼の東側から三才の山裾辺りまでの広大な空間へと広がります。現在の川中島は、小河原よりもひどい湿地帯でしたから、むしろ長沼を中心とする一帯が局地戦が断続する戦場だったのかもしれません。
  千曲川主流は福島宿の北西端辺りから北東に曲がり、長沼の真東では2キロメートル以上も須坂寄りに流れていたということです。

前の記事に戻る |