相之島集落の中心部に河東相嶋神社があります。もともとは諏訪社でした。 神社の歴史を伝える史料は見つかっていませんが、戦国時代に武田家の指導下で村落の開拓時に勧請創建されたものと推定されます。明治晩期の祠堂合祀令によって伊勢社と統合され、大正時代に現在の社号に変えられたようです。
  境内の東隣に禅刹源信寺がありますが、創建時には神仏習合の格式に沿って諏訪社と寺院が一体化していたはずです。


◆創建時は武田家ゆかりの諏訪大社だったか◆



相嶋神社の境内: 神社の西側に集落センターや公会堂がつくられたために境内は半分ほどに削られたようだ



▲諏訪大社系として大鳥居は明神式の形状だ


▲拝殿は基部が嵩上げされ板張りされている


▲拝殿と本殿との間に幣拝殿が置かれている造り


▲神社の社殿群と禅寺の堂宇群とが隣り合い並行している


▲宝物殿と見られる小堂も土台が嵩上げしてある


▲本殿の背後にある蚕影神社の祠


▲拝殿前の境内の様子(背景が公会堂)

■神社の創建や由緒は不明■

  河東相嶋神社の来歴や由緒に関する史料は見つかっていません。村の言い伝えによると、古来、タケミナカタを主祭神として祀る諏訪大社として開創されたそうです。そこにやがて伊勢神宮(天照大神)を合祀したようです。
  社号は、明治初期まで諏訪明神社だったのですが、明治8年に社号を河東相嶋神社と改めたとも伝えられていますが、史実として正確かどうかは不明です。明治晩期に祠堂合祀令が発せられ、集落の祠堂がここに合祀されたと考えられるので、そのさいに改号された可能性もあります。

  相之島では、相嶋神社に寄り添う位置に禅刹、源信寺があるので、明治維新での廃仏毀釈による仏堂破壊はほとんどなかったように見受けられます。寺の北側にあった尼僧庵の観音堂も明治時代まであったということなので、神仏習合の伝統・格式は守られたようです。
  当時、集落をまとめていた名望家たちが自立的・自発的な判断をし、さらにまた明治政府の圧迫に動じないほどに威信を保っていたということかもしれません。この辺りの事情も、相之島が千曲川東岸の集落群開拓の創始だったのではないかと見る理由です。
  とはいうものの、神社の西隣に集落センター(公会堂)を建てるために、昭和期には相嶋神社の境内の西半分を削っしまったようにも見えます。


本殿の背後からの様子


集落センター(公会堂)は神社境内の西隣にある

  さて、大鳥居の正面奥に拝殿が置かれていますが、その背後に幣拝殿と本殿が置かれていて、社殿は3つの部分からなっています。
  幣拝殿は諏訪大社に特徴的な社殿の結構です。その意味では、この神社が本来は諏訪社として開創発足したという歴史と伝統を保っているように見えます。ただし、のちに伊勢神宮をも合祀したので、本殿を諏訪社と伊勢社とに分けるために本殿と幣拝殿のつくりを利用したのかもしれません。
  社殿群は入母屋造りな――簡潔な切妻造りではない――ので、結構全体としては諏訪大社の様式となっています。大鳥居も明神風の造りなので、基本はやはり諏訪大社という仕組みになっているということです。
  古代に創建された古い歴史の神社は、諏訪明神社系も伊勢神明宮系も、ともに幣拝殿というつくりをもっているので、社殿の。
  本殿尾背後には、稲荷社が祀られていますが、これは養蚕神と融合して蚕影神社という相之島独特の格式になっています。この珍しい融合は、――明治40年代に祠堂合祀令によって推進された――村落の小さな神社や指導を主要な神社に合祀併合させるという政策・運動のなかで生じたのかもしれません。
  ところで、社殿群の造りは水害に備えて土台が嵩上げされていて、床下への浸水を防ぐように板張りがされています。ことに本殿と拝殿前の宝物庫らしい小堂はコンクリート製の土台となっています。やはり千曲川河畔にあるという地理的女権が社殿の造りに強く影響しているのでしょう。

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