◆諏訪氏と大祝諏方氏の歴史 平安末期から江戸初期まで◆



▲諏訪湖南岸の地形: 霧ケ峰から永明寺山まで続く尾根の背後(東方)に八ケ岳連峰。右端の尾根が永明寺山。

画面中央やや左の尾根中腹が上原城跡で、ここに大祝諏方氏の城館があった

  諏訪地方での歴史と文化を理解するためには、諏訪氏・氏の歴史を学ばなければなりません。しかし、その歴史は複雑で、郷土史家を含む歴史家の見解は多用に分かれているようです。私は門外漢なので、多くの歴史家に共有されている流れを概括することにします。

◆諏訪氏と諏訪衆の領主化◆

  平安時代末期には、諏訪氏は神官であると同時に武士としても活躍し、諏訪地方の武士団のおさとして神職に就いていない庶子や家門の一族を各地での戦役に派兵するようになったそうです。荘園公領の統治を担う武士が担うようになると、やがて武士は領主として農村と農耕地を所領として排他的に支配するようになります。
  1083年、源義家が出羽の清原氏討伐のため後三年の役に介入すると、大祝為信の子である神太為仲(諏訪為仲)が源氏軍に加わったということです。
  諏訪氏は鎌倉時代の当初は幕府の御家人――自立的な地頭領主として源頼朝に臣従する領主――でしたが、やがて幕府の実権を握った北条得宗家の直属家臣となって、頼朝没後に飛躍的に拡大した北条家所領の管理などの家政運営を担ったようです。信濃国諏の訪郡も北条家の所領となったようです。
  その後、諏訪家は幕府や北条氏に対する反乱を鎮圧する戦役で活躍して、北条家家政役人の筆頭(内管領)にまでのぼりつめていきました。
  北条氏の庇護を受けた諏訪大社も、頼朝の崇敬を受けていたこともあって東国の武神としての評判が高まり、全国から勧請されるようになりました。各地に諏訪神社が建立されました。

◆信濃と諏訪地方での勢力争い◆

  ところが14世紀、鎌倉幕府の没落とともに諏訪家も勢力を失い、北条家の庇護がない状態で諏訪郡の所領を維持し、信濃での勢力を確保しようと動くようになります。そこで、小笠原氏を信濃守護に補任した足利尊氏派と対抗することになります。こうして、諏訪氏は小笠原氏と信濃での勢力争いを続けることになりました。
  室町時代に北朝が支配的になると、南朝派にくみしていた諏訪大社のうち下社の金刺氏が北朝派に転じて上社の諏訪氏と対抗し、以後戦国時代まで諏訪郡で領地争いをすることになりました。
  足利義満の治世(14世紀後半)では諏訪氏も室町幕府に臣従することになり、上社の諏訪氏と下社の金刺氏は幕府の影響下にありながら領主として互いに勢力争い・領地争いを繰り広げたようです。
  室町後期には、諏訪惣領家と大祝諏方家とがそれぞれ独自の領主として対峙し勢力争いすることになりました。諏訪惣領家と大祝諏方家の確執が生じて、大祝諏方家が諏訪から追いやられ、所領を高遠に移して高遠諏訪家を興しました。諏訪郡では同じ一族でありながら家門ごとに――諏訪大社の神職を担う千野、矢島家などの諏訪衆の各家門も――自立的な領主として生き残りや勢力拡張のために時には同盟し、時には権力闘争をする事態になります。
  この争いのなかには、すでに見たように諏訪大社の上社と下社との利害対抗や敵対関係も入り込んでいました。
  とはいえ、諏訪惣領家と大祝諏方家とが政治と祭事を分業分担し、千野家や矢島家などの諏訪衆が惣領家の周りに結集し、同盟を結んで諏訪・茅野地方での諏訪大社上社の勢力や権益を保持しようとしていたものと見られます。

◆戦国時代から江戸初期まで◆

  戦国時代中期以降になると、諏訪氏諸族は甲斐国守護の武田家の勢力伸長や戦役に影響され、ときどきに敵味方になり離合集散を繰り返して領主としての生き残りをはかりました。
  結局、武田信玄の信濃攻略によって諏訪地方は武田家の直轄領になり、諏訪と高遠には武田家の家臣としての諏訪家が生き残りました。ところが、織田・徳川同盟の信濃攻めによって武田家は滅亡し、諏訪地方の統治秩序は混乱し、織田・豊臣政権下では諏訪家惣領家も大祝諏方家も諏訪地方にとどまるか域外に逃げるかして逼塞したようです。諏訪衆の筆頭、千野氏も上州に逃れました。

  史伝によると、17世紀末までには、千野家や矢島家など諏訪衆同盟の支援を受けて諏訪頼忠が高島城を奪還して諏訪領の支配を回復したそうです。そして、関ケ原の戦いで徳川家に臣従して戦功をあげ、幕藩体制の発足とともに諏訪家は諏訪藩主に任じられ、千野家はその家老職におさまり、諏訪大社上社神職としての大祝諏方家も復興しました。

◆諏訪氏・大祝氏の居館の変遷◆

  かつて大祝は、後に上社前宮の境内となる場所にある神殿ごうどのと呼ばれる居館に住み祭政を取り仕切っていました。大祝は祭政両権を保有したことから、宮川南岸は諏訪地方の政治の中心地でもあったようです。その居館の一帯は神原ごうばらと尊称され、代々の大祝職位式のほか多くの祭事が行われたそうです。
  室町時代に諏訪氏が惣領家と大祝家とに分かれたとき、政治の中心地は惣領家の居城である上原城に移りました。後に大祝の屋敷は上社本宮の近くにある宮田渡みやたどに移転したけれども、祭事は引き続き前宮に行われていたそうです。
  室町末期から戦国時代は諏訪家や大祝おおほうり家、さらに諏訪衆各家門が入り乱れて領地や勢力をめぐって離合集散して争ったので、統治や催事の拠点はあちらこちらと移動したものと見られます。
  徳川幕府が支配する江戸時代に入ると、藩主諏訪家の居所の高島城が諏訪高島藩の政庁となりました。そして、大祝諏方家の居館が現在地に置かれ、諏訪湖南岸での祭事は上社本宮と前宮を中心におこなわれることになったようです。


諏訪大社上社前宮の大祝氏居館(神殿)跡:この辺りから社務所、十間廊、内御玉殿がある一帯に居館「神殿」があったらしい。

大祝氏の居館跡が前宮の境内の中心になった


高道沿いの新願門跡。この門は江戸時代の建物。 さらに古くは神殿の正門としての御門屋があった。西隣の石垣の奥は、家臣団の屋敷街だったと見られる。


この細道が小町屋の中小路で、
前宮本殿尾直下まで続いている

道幅はも少し広く、家臣団の屋敷が並んでいたという



この尾根の上に干沢城(樋沢城)跡がある。
1483年、大祝諏方家の頼継は諏訪地方の覇権を独占しようとして、諏訪惣領家の当主と嫡男を不意打ちで殺害したが、千野氏、矢島氏などの諏訪衆の反撃にあって、干沢城に立てこもった。その結果、追い詰められ、杖対峠を越えて高遠まで逃避した。頼継は諏訪大社の高遠領に城郭を構えて領主となり、高遠諏訪家を興したという。


宮川河畔の大祝諏方家居館跡。戦国時代の混乱の後、徳川幕藩体制のもとで諏訪惣領家は諏訪藩主となり、大祝諏方家は上社の神職に復帰し、この居館に暮らした。

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