和田城跡と居館跡を探索する その2

  和田郷を開いた在地・土着の名門家門(和田六騎)は、戦国の世で和田郷を軍事的に防衛する必要上から、大井氏を領主として臣従しました。ところが、状況が変わって、有力武将による領主たちの軍事的統合が進んで、さらに有力な武将領主が統治権力を求めて交渉=調略を仕かけてくれば、これに応じたはずです。
  和田大井氏が武田勢によって滅ぼされた事情は、そういうものではなかったかと考えられます。
  おそらく和田六騎の諸家門は郷村を守るために、武田家の調略に応じて臣従することになったのでしょう。和田信定は調略・説得に応じず、武田家への降伏・臣従を拒否して抵抗したために滅ぼされたのではないでしょうか。六騎の諸家門は、かつては領主として臣従していたものの、心ならずも武田家によって滅ぼされた旧領主、大井信定の菩提を弔うということになったのではないでしょうか――和田郷の存続のための尊い犠牲者として。
  武田家による信濃攻めでは、このような支配者の入れ替わりがいたるところで見られたようです。そういう場合に旧領主の菩提寺が、その居館跡に建立されることも往々にしてあったはずです。信定寺の創建の事情もまた、そうだったと私は見ています。



▲山麓の信定寺本堂と鐘楼門: 言い伝えでは、この辺りに和田大井氏の領主居館があったという

▲信定寺領主館 出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』4(2012年)

  さて、信定寺を含む山麓一帯は、和田大井氏の居館と家臣団の屋敷集落があった場所だと見られています。現在は、和田下町という街区になっています。その当時は、和田郷の主な集落は下町や仮宿、橋場、久保にあったと見られます。
  和田大井氏は、武石郷の大井氏の家門から分かれたとも、依田窪古町を拠点とする大井氏の家門からの出だとも伝えられています。いずれの出自だとしても、信定寺と下町に大井氏の館と直属の家臣団の屋敷街があった頃には、大井氏は和田郷を単独で統治する自立的な領主だったはずです。もちろん、和田領の防衛のために隣接する武石大井氏や依田窪大井氏とは大井一族として緊密に同盟していたでしょう。
  直属の家臣団は、武田勢に包囲されたときに、逃避したり、城主とともに討ち死にないし自刃したりして、和田郷にはほとんどいなくなっていたでしょう。この村に残って帰農した者は、卒(足軽)などの下級の従者だけだったのではないでしょうか。
  大井氏の治下では和田六騎の家門は、それぞれもともとの居住地の屋敷に住まっていたようです。つまり、彼らの屋敷は、本町、橋場、久保、仮宿などの集落にあったと見られます。そのうち、羽田家本家以外は江戸時代になると、宿場役人・村役人として本町と下町に居住して村の統治を担い、本陣や脇本陣、問屋、旅籠、材木商などを営むようになったようです。その資産や名望、識字・算勘の素養がなければ、務まらない仕事です。
  彼らはもっぱら郷村の統治実務に携わりましたが、戦国領主に直属する家臣になることはなく、戦に加わることはなかったため、江戸時代には宿場役人・村役人を務め、その後昭和期まで家門を維持することができました。



▲信定寺の本堂と庫裏、居住棟など


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