地形と地理から倉見城の実相を探る

  この絵地図は、倉見城跡の近辺の地形を概略表示するものです。
  倉見城跡に立つ説明板は、15世紀末以降の倉見城をめぐる歴史を説明しています。ところが、茂田井に住む倉見さん――倉見城主の末裔――に出会って、倉見家と茂田井(古くは甕という字を充てた)の歴史について取材したことから、倉見城と茂田井の新たな歴史像が見えてきました。
  倉見さんの話によると、倉見家ははるか昔(800年ほど前)は島津という姓で、薩摩島津家の分家だったそうです。その分家の島津氏は13世紀に鎌倉幕府から現在の茂田井――古くは「甕」という字を充てていた――とその一帯の領地の地頭領主に任命されて、ここに領主館を構え、この地方の開拓と集落形成を指導したということです。
  幕府からはこの一帯の地頭領主として授封(任命)されたのですが、島津本家からは信濃での情報収集・諜報活動の任務を与えられたそうです。この任務のための政治的な配慮――島津家との強い結びつきを隠すため――から、家名を島津から倉見に変えたのだとか。その頃、この辺りは倉見と呼ばれていたと見られます。

  無量寺が倉見氏(島津氏)の菩提寺だということですが、どうやら前任地の天台宗の菩提寺を甕(茂田井)に移して、当時集落内にあって荒廃していた無量寺を再興したのではないかと見られます。あるいは、すでに平安時代に島津家の一族がここにやって来て、森林や草原原野が広がっていた甕に農耕地や集落を開くさいに、無量寺を創建開基したのではないでしょうか。やがて領主となって、その実績が鎌倉幕府から認められ地頭職に任命されたということでしょう。
  倉見一族の言い伝えでは、島津=倉見氏が現在の倉見城跡に設けたのは、山城というよりも、軽微な砦としての防備を施した居館でしかなかったはずだそうです。つまり、山城跡ではなく居館跡というべきだというのです。鎌倉時代には、建築技術から見ても統治思想、軍略構想から見ても、後代の山城に匹敵すべき城砦を構築しなかったようです。
  してみると、室町後期ないし末期から信州各地で盛んに構築されるようになった山城は、この倉見城跡ではなく、周囲の尾根筋や峰に築かれたのではないかという見方がより正しいということになります。
  では、室町後期から戦国時代にかけて山城が構築された場所はどこなのでしょうか。それを探るための材料として、この一帯の地理地形を上掲の絵地図に表しました。

  山城の城砦郡が築かれたのは、主として無量寺の背後に迫る尾根筋ではないかと推察できます――上の写真の「西側の尾根」。そして、集落内にあった無量寺は戦国時代に戦火を浴びて失われたのですが、やがて甕=倉見氏の領主居館があった場所に移転再建されたのではないでしょうか。
  つまり、戦国時代には現在の無量寺の境内に居館があって、その背後の尾根筋に城砦(曲輪)が連なっていたのではないかということです。また「東側の尾根」にも砦や監視施設が築かれていたはずです。というのも、倉見城跡とされる高台は東西両側の尾根よりも低いので、それを見おろす両側の尾根に城砦を設ける必要があるのです。これは戦国時代の山城築城の基本です。
  そして、茂田井集落の南に張り出した尾根群には見張り所となる砦や城郭が設けられていたことでしょう。したがって、倉見城跡とされている小高い丘は、鎌倉時代からの倉見氏の領主館の跡で、戦国時代には茂田井集落の統治のための御殿(庁舎)が置かれていたのではないでしょうか。