中山道と茂田井間の宿の絵地図

  この絵地図は、間の宿茂田井近辺の中山道を案内するものです。
  「間の宿」は「相の宿」「合の宿」と書かれることもあります。これは、幕府(道中奉行)から正規に認められた宿駅ではありません。街道のなかで宿駅どうしの間の道のりが遠い場合や、山や峠などの難所がある場合に、両駅の中間に休憩所として便宜的に設けられた集落のことです。
  正規の宿場ではないため、本陣や問屋というものは置かれず、休憩用の茶店はありますが、小さな旅籠などがあるのはまれです。とはいえ、江戸時代の中期以降に商工業とともに物流や旅行が盛んになると、街道を往き人びとや商人、近隣住民が集まる藩かな集落となりました。
  茂田井は、そのように栄えた間の宿の典型で、現在残されている集落の遺構としては、芦田宿よりも規模が大きいのです。また、昭和レトロで城下町のような街並みは、多くの人びとを惹きつけています。

  その背景には、茂田井には鎌倉時代からの古い城下町(所領)があったという事情があります。島津家の分家が鎌倉幕府からこの一帯の地頭領主として派遣され、無量寺の南東にある場所に倉見城を築いて統治し、農耕地開拓や集落建設を指導したのです。その島津家は、島津本家の雨に信州での諜報活動を兼ねていたため、ある政治的事情から姓を倉見に変えたのだとか。無量寺は倉見家の菩提寺です。
  無量寺は平安時代の創建ですから、島津氏=倉見氏はその頃からこの一帯の荘園の治安警察を担っていて、開拓を指導していたのかもしれません。
  倉見氏の城下町は、この近隣の芦田古町など、後代に発達する城砦や城下町建設の先駆けとなったようです。