信濃の街道 北国街道

  北国街道松代道は、北国街道の脇往還のなかで最も短い経路です。
  松代には古代から開けた集落があって、近隣の尾根には古墳があります。とはいえ、暴れ川の千曲川は、増水や氾濫のたびに流路をくねらせて大きく変え、松代町の東端の山麓から川中島南部まで水害をおよぼしていました。したがって、古代に開けたのは山裾や山間部でした。保基谷岳山系や地蔵峠などから発する渓流群は、山麓に西向きの広大な扇状地を形成しました。緩やかな斜面が千曲川まで続いています。
  古気象の研究によれば、室町時代から寒冷期が始まるとともに乾燥化が進行して、松代の扇状地と川中島には湿原のなかに丘陵台地の島々が数多く浮かぶようになったようです。
  両陣営は、善光寺平の北部で対決するために長沼から松代にいたる地帯の千曲川沿いに軍道を構築しました。そして、この軍道は、平時には交易と物流の幹線となっていきました。これが、北国街道松代道の土台となったようです。

■信濃の古街道■

  下に掲げた絵地図は、1450〜1650年の善光寺平の千曲川水系古地理(推定)と北国街道の経路を説明するものです。
  川中島では犀川が流れる北西端と南西端とのあいだの高低差は30メートル以上もありました。ダムも堤防なかった時代、北アルプスや中央アルプス、美ケ原のなど中央高原から流れ下る膨大な水量を集めて流れる犀川から、溢れ出した水流は何百もの経路で奔放に千曲川まで注ぎ込んでいきました。
  15世紀には乾燥が進んだものの、川中島は広大な沼沢地帯・湿地にあまたの堆積丘陵が島となって浮かんでいました。松代藩が千曲川や犀川やその支流群の流路を変えて農業用水路を建設するまでは、善光寺西街道を除いて、千曲川西岸の川中島を陸路で北上する街道の建設は困難でした。
  そこで、軍略上ならびに通商上の拠点を結ぶ脇街道は、屋代から松代を経て福島ないし村山で渡河して長沼を経由する道筋と、同じく福島から盆地東端の山麓を北上して須坂、飯山、越後に向かう道筋が形成されたのです。
  なかでも長沼は、善光寺道、松代道、谷街道、大笹街道との――千曲川の舟運も利用できる――結節地にあって、物流の拠点となって殷賑をきわめたようです。

■江戸時代初期の北国街道と千曲川水系■

  上に掲げた絵地図は、1610〜1650年の善光寺平の水系古地理(推定)を説明するものです。
北国街道は北信では、
  @塩尻方面から松本、筑摩郡の山中を往き稲荷山宿、篠ノ井追分にいたる西往還
  A中山道追分から小諸宿、上田を経て屋代宿にいたり、
   さらに篠ノ井追分を経て丹波島・市村の渡しで犀川を越えて長野村善光寺に詣で、さらに吉田を経由して、牟礼宿に達する善光寺往還
  B屋代宿から千曲川右岸沿いに松代宿、川田宿、福島宿、長沼宿を経て牟礼宿に向かう松代通り
  という3つの経路が建設されました。
  ここでは、北国間道の松代通りとしては、17世紀半ばまでに整備された北国街道の経路を描いています。
  ところが、戦国時代に武田家が開削し始め、武田家滅亡後に上杉家が整備した軍道――初期の北国街道松代通り――は、屋代から千曲川から離れて倉科から妻女山の南を回って清野村と松代宿に出る経路と、屋代から雨宮を経て生菅からやはり妻女山の南を回って松代にいたる経路が主幹だったそうです。そして、松城からは大室の尾根を越え、さらに山腹を回り込む山道で川田宿に向かう経路となっていたそうです。
  17世紀の半ばからしだいに山麓を往く千曲川沿いの――土口村、岩野村を通り妻女山の北麓を往く――経路が幹線になってなっていったようです。

参考 松代城跡の地図