弥美登里神社の大鳥居から200メートルほど北東方向に弘法大師座像と寺院の跡があります。また、耳取城跡には観音堂曲輪と呼ばれた段郭の遺構があって、そこには熊野権現社が祀られています。
  それらから推定できる耳取の寺社の歴史、かつてあったと推定される寺院の歴史を探ってみることにします。


◆弘法大師座像と観音堂曲輪遺構が語る歴史◆



今は無住らしい古民家の軒下(右端)に置かれた弘法大師座像。左の石塔は大乗妙典奉納塔。



▲古民家の軒下に置かれた弘法大師座像


▲大乗妙典経奉納塔の年号は天明年間となている


▲桝形遺構の脇から寺院跡らしい段丘を眺める、舗装道路は旧小諸道。


▲弘法大師座像の前から弥美登里神社のある方向を眺める


▲墓標や石仏が林立している壇上。背景は浅間山。


▲壇上は小さな寺または堂庵があった跡のような風情


▲耳取城遺構の観音堂曲輪跡に残る熊野権現社の石仏や祠

◆遺構や痕跡から歴史を探る◆

  弥美登里神社の大鳥居から北東方向に200メートルくらい離れた道路東脇の古民家の軒下に弘法大師座像の石像があります。その隣は、石仏群も残る墓地となっていて、小規模な寺院または堂庵があった跡のようです。
  そこは、玄江院の駐車場の東の小諸道沿いの段丘面で、道路よりも1メートルくらい高くなっていて、縁が石垣で支えられています。壇上の面積は30m×20mほどで形は台形です。
  弘法大師座像は時代を経ていて江戸時代に建立されたものと見られます。脇に立つ大乗妙典塔に刻まれている年代は天明六丙年となっています。同じ頃のものではないでしょうか。

  段丘上に上がって見回すと、多数の墓標が並んでいます。そのなかには石仏も混じっています。江戸時代には一般庶民は石仏のような形に彫った石を墓標としていたそうです。
  どうやら幕末までここに真言宗(密航系)の小さな寺または堂庵があったのではないかと推測されます。


壇上から北西方向に玄江院を眺める

  耳取では、何か所かにこの段丘上のような墓地が分散しています。規模が大きなものは、耳取城の遺構にある荒屋曲輪跡や藤棚曲輪跡にあります。してみると、戦国時代まで城下街だったということもあって、耳取は比較的に大きな住戸数を擁する都市集落だったらしいことがわかります。

  ところで、荒屋曲輪の西隣には観音堂曲輪跡があって、その壇上には熊野権現社が祀られています。この曲輪は、県道78号の建設によって切り削られてしまい、今では東端の部分――往時の曲輪の5分の1くらいの面積――だけが残されています。
  熊野権現社は今は鳥居だけで、壇上には3基の馬頭観音(石仏)と小さな石祠、石神らしい自然石が数個が置かれているだけです。

  とはいえ、鳥居には熊野権現社と記されているので、おそらく観音堂曲輪には鎌倉~室町時代まで密教寺院があったのではないかと推定できます。熊野権現社は山岳信仰や密教修験の拠点となる霊場や寺院の一部だったはずです。
  その密教寺院の観音堂がこの曲輪跡にあったことから、観音堂曲輪と呼ばれたのでしょう。その当時は、おそらく真言宗の寺院となっていたのかもしれません。
  ところが、室町中期までには衰微してしまい、1466年に耳取城主の大井貞隆が開基となり臨済宗の禅刹、天龍山萬福寺を創建したと伝えられていますが、それは臨済宗の禅層たちが衰微荒廃した密教寺院を禅刹として再建したものではないかと推定されます。
  そして、現在、弘法大師座像が置かれたこの段丘面には、真言密教の衣鉢を受け継ぐ堂庵が幕末まで営まれていた・・・そんな歴史物語が想像できます。