大桑村長野地区の地形を考える


◆木曾川が蛇行して形成した奇妙な地形◆



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  この地区の地形と木曾川の流れの歴史との関係を考えてみましょう。ここには明らかに木曾川が太古に半円形を描くように南に蛇行していた痕跡が残されています。
  木曾川の流水によっては浸食され削り取られなかった部分が、小さな山となって残されています。山と谷底の平坦地との高低差は60~80メートルほどもあります。これほどの浸食地形は、この平坦地の背後の山から流れ出てくる沢によっては、つくり出されることは不可能です。
  沢の流水量では、これだけの規模の大地の浸食と土砂の運搬は不可能です。木曾川レヴェルの流水量、その破壊力と運搬力がなければ、このような大きな弧を描く浸食はありえません。
  大桑村須原から野尻にかけての流域は、木曾川の勾配が比較的に緩やかです。それゆえに川は蛇行しやすくなりました。周囲の山岳には曾川に向かって張り出した尾根の数がきわめて多いことが木曾川の蛇行の原因のひとつではありますが、浸食した土砂をここにより多く堆積させたことで、勾配がゆるくなったということが蛇行をもたらした最大の原因です。
  昭和初期まで人びとは、長野の小山と木曾川との間の河岸斜面を通る危険を避けて、小山を南東に迂回して須原方面に旅をしたのです。
  太古に木曾川によって長野の輪ドーナツ型の谷間が形成され、また対岸の殿地区にも木曾川によって河岸丘陵が形成され、その地形を土台として、それぞれ背後の山岳から流れ出した川や沢が扇状地をつくりだしました。そのため、須原から長野、野尻にかけては、河畔に木曾谷では例外的に肥沃な複合扇状地や河岸段丘、ゆるやかな丘陵斜面を生み出したのです。
  この木曾谷ではまれな地理的環境を人類は太古から利用して、定住集落や植物栽培地を開拓してきました。
  平安時代には、木曾川の水害から比較的に安全な高台で農耕地と集落が開かれたと見られます。そして、平安後期には、武士団領主たちに指導された集落や統治の拠点としての居館の建設が進められました。
  そのような基礎ができたため、木曾源氏勢力は、殿地区と長野地区を中心とする勢力圏を形成することができ、領主たちは同盟を結び、源義仲を盟主としてやがて平家打倒への運動を展開していったのです。
  木曾谷には、もう一か所、同じように地形の幸運に恵まれた場所があります。福島です。そこでは、流量の大きな支流群が木曾川の左右から合流して、大桑村よりももっと広い河岸の平坦地=盆地をもたらしたのです。