愛宕山城跡を探る

  上掲の写真は、阿寺の木曾川右岸から下在郷越しに野尻宿の南側に迫る山(尾根群)を撮影したものです。妙覚寺の背後の尾根峰は、のぞきど高原から野尻に張り出した稜線の一部をなしています。愛宕山は、野尻宿を見おろして監視・防御する城砦を築く地点としては最適な場所といえます。
  下掲の地形図と鳥観図の出典は、宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻(2012年刊)です。妙覚寺の背後に迫る尾根筋にあったと見られる城砦跡を宮坂氏が探索して作成したものです。
  さて私見では、愛宕山城(砦)の起源は室町時代よりもずっと古いと考えられます。平安時代末から鎌倉時代中期までに源氏系の領主たちが台頭した時代に、いっときは木曾義仲に臣従した領主が、現在の妙覚寺の境内に居館を設け、素のは意義の尾根峰に砦を築いたのではないでしょうか。
  その遺構は、室町後期に藤原(沼田)系の木曾氏が大木曾から小木曾まで勢力を広げたときに、家門の領主――野尻氏を名乗る――がやはり稜線上に砦を築き、裾に城館を構築し、やがてその城館の敷地を妙覚寺に譲ったのではないかと想像できます。

  野尻氏は戦国時代末に城館を倉之坂の頂部(高札場跡)辺りに移したのではないでしょうか。なぜそう推定するかというと、この場所は野尻近辺の集落群から収取した米などの穀類を保管した蔵があったことから「倉之坂」と呼ばれるようになったと伝えられているので、野尻氏の統治の拠点が倉之坂がある尾根裾へと移されたのではないかと見るからです。 野尻では二反田川などの蛇抜け(土石流)が頻発したので、野尻氏はより安全な場所として倉之坂の南西側、後の上町・本町を中心として野尻集落の建設または再建を企図したものと考えられます。
  ところで、三留野にも愛宕山城と呼ばれる城砦跡がありました。どうやら、室町後期頃から木曾谷では同じような構想で領主による統治と集落建設が展開したように見えます。おそらく、最初の成功事例に倣って城砦建設や集落建設が進められたのでしょう。

■愛宕山城跡の地形図と鳥観図■




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