さいかみ土塁を探索する



出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻(2012年刊)

  上の絵図は、宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻からの引用です。下の縄張り地図も同じ出典です。
  南木曽岳の主稜線から西に張り出した尾根のひとつの中腹に「さいかみ土塁」と呼ばれる不思議な構築物があります。城山の妻籠城の東方の向かい側に位置しています。構築物の全長は500メートル以上あるそうです。
  妻籠城の土塁や堀切、切岸がすっかり浸食されて原型をとどめていないという状況に比べると、この土塁遺構群ははるかにしっかりと形状を保っています。したがって、構築された年代が200年以上は離れていると見られます。しかも軍事的な防備としてはそれ自体じつに安易な造りで、軍事的防衛における機能という観点から妻籠城と連携性がほとんどまったく見られません。つまり、妻籠城の城砦遺構には属していないのは明らかです。
  構築年代は江戸後期から昭和初期までのどこかではないでしょうか。戦国時代の土塁だとすると、少なくとも今述べた時代に必要もないのに修築ないし補修したことになります。そういう見方はあまりに不合理です。
  利用目的についての説のひとつに、牧場施設ではないかという見方があります。牛や羊の放牧のためのもので野生獣の進入を防ぐために用いたか、あるいは野生のイノシシを誘導して捕獲ないし飼育を試みたのではないかという意見です。明治時代に陸軍が野戦演習のためにこの土塁群を用いたのではないかという、うがった見方もあるようです。
  妻籠の郷土史家によると、木曾地方の「さいのかみ」とは「賽の神」というもので、村境の尾根や谷間に設けた境界の目印で、そこに山神などを祀った堂舎・祠や石積みを置いたものだといいます。おそらく、この「さいのかみ」の起源はそれで、妻籠村と三留野村との境界の施設だと見られます。とはいえ、これほど大がかりな構築物になった理由はやはり不明です。


出典:同上