左近右衛門屋敷跡を探る



出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻(2012年刊)

  上と下の絵図は、宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻からの引用です。下の縄張り地図も同じ出典です。ただし、場所の説明語句を追加し、方角の誤りは修正してあります。
  宮坂氏は、現在の街道などの場所を前提して、それを基準にしてこの城砦や設備、構築物を復元図示しています。そこで、城山妻籠城があった時代には左近右屋敷の前には中山道は通っていなかったことを、断っておきます。古中山道は妻籠城の縄張り内を通っていませんでした。
  妻籠城へ登る大手道の起点近くに城番役の杉村右近右衛門の役宅――およそ20坪ほどの小さな家屋――があったと伝えられています。そこに城山茶屋があったとも伝えられていますが、城砦があった頃ではなかったはずです。軍事施設の入り口に茶屋を置くはずがありません。妻籠城が破却され、その東麓に中山道が開削建設されて以降のことだと考えられます。
  では、城番役だった杉村左近右衛門とは何者だったのでしょうか。戦国時代に妻籠城が現役だった頃には、大手道すなわち登城口を守る番士頭で、それを城番と呼んだのでしょうか。どうも違うようです。城番だと、城全体を警護しているという意味になるからです。
  むしろ、関ケ原の戦い遺構、徳川家の覇権が確立して妻籠城を破却してから後に、廃城跡地の監視を担う役だったと見られます。杉村氏は、妻籠宿の本陣を務めることになった有力な郷士、島崎氏の郎党だったようです。だとすると、近世の中山道の脇に屋敷(役宅)を構えていても不思議ではありません。


出典:同上