南北両小野宿街歩き絵地図

  この絵地図は、南北両小野地区(旧小野宿)を歩いて楽しむための絵地図です。
  旧小野村は戦国末期から江戸時代はじめにかけて、唐沢川を境界線として南北に分割されました。
  このような小野村が南北分割に向かう契機はすでに鎌倉時代にはあったと見られています。鎌倉時代には、小野神社(諏訪社)の神官たちが2つの派閥に分かれて社殿も2系統に分かれ、祭事なども2つの村落集団に分かれて催されていたのだとか。この傾向は戦国時代まで引き継がれていたところに、松本平と筑摩郡を治めていた領主(松本城主石川数正)と伊那谷を治めていた領主(飯田城主毛利秀頼)との領地争いで神社と小野村が争奪の対象になってしまいました。
  戦国末期に覇権を握った豊臣秀吉は、領主たちの領地争いを収めるために「喧嘩両成敗」の原則で裁き、小野村を北小野と南小野に分けて2領主それぞれに半分ずつを治めさせるという決着をつけたのだそうです。この境界分けが徳川幕藩体制にも引き継がれて、北小野は松本藩、南小野は高遠藩に帰属するようになったようです。
  その後、それぞれ藩領国経営のために民衆の分断統治をおこなおうとした松本藩や高遠藩の政策で両村の対立感情が高まり、近代までその影響が残っていたようです。今でも行政区分では、北小野が塩尻市、南小野が辰野町とに分かれています。
  とはいえ、現在では、小中学校は「両小野」と名づけられたように、両地区の連携と協力が進んできています。
  ともに緑豊かな庭園と和風の住宅が並ぶ美しい街並みで、タウンウォッチングが楽しいところです。

  旧三州街道は、国道153号から小野上町の北の駒沢川河畔で西に転じて、南北両小野を南北に縦断して、小野・矢彦神社の西脇を通る集落内の道です。初期中山道(牛首峠越えの街道)は、小野下町で三州街道に合流していました。下ノ諏訪へは、小野峠を越える道で旅をしました。昔も今も、脇往還が何本も通っています。

■三州街道と小野宿のジオラマ■



塩尻市 平出博物館所蔵・展示

  初期中仙道は、木曾贄川宿の北にある桜沢の近くで東に折れて牛首峠越えの経路で――三州街道と連絡し――小野宿を経由して、さらに勝弦平または小野峠を越えて諏訪湖畔の岡谷に下り、下ノ諏訪宿にいたる道筋となっていました。いわば木曾路から下諏訪まで最短の道のりで建設された街道でした。
  このようなコースで建設されたのは、古代からの東山道――ときどきに応じて幾つもの経路を取っていた――の主要な経路のひとつが牛首峠・小野を経由する道筋だったからです。東山道は、伊那を経由するコースだったり、野麦峠の南から塩尻に抜けたり、のちの中山道の道筋になったりと、時代と状況に応じて様々なコース取りになっていました。

  さて、当山道の主要経路が「牛首峠~小野~岡谷」経由となった理由は、小野の周囲の高山・高原には古代から大和王権に馬を貢納する牧場――官牧と呼ばれた――がいくつもあったからです。古代の日本で、騎馬軍団は現代の核兵器のように圧倒的な攻撃力・破壊力・機動力を備えた軍事力で、大和王権の政治的・軍事的権威を拡張するために不可欠のものでした。
  冷涼な気候の信州の高原高地は、馬を育成するために格好の場所でしたから、信州中央部の各地には数多くの官牧がつくられ経営されていたのです。小野盆地の近隣では、西側の霧訪山と東側の勝弦に優良な牧場がいくつもあったため、小野は大和王権にとっては是が非でも掌握・確保しておきたい交通の要衝だったのです。そして、そうなったのは、かなり古い時代から小野近辺で農耕開拓や集落建設が進められていたからです。縄文時代からこの辺りには集落があったそうです。

北小野にある「たのめの里案内」絵地図

トリミングして地図の中心部を抜粋したものです。

  この案内板にあるように、小野盆地は東山道の要衝のひとつだったことから古代から都にも知られていて、「たのめの里」あるいは「頼母の里」と呼ばれていました。清少納言も小野を憑の里として記しているそうです。
  たのめの里には、おそらく「心のよりどころ」となる風光明媚な場所という意味があるのではないでしょうか。古くは軍事的遠征や王権の勅使としてここを通り、停泊した都の武人や貴族はそんな土地の様子を都人に伝えたのではないでしょうか。
  ところで、小野には有力な神社がありますから、神とか信仰・尊崇の対象との関係を考慮に入れると、憑(たのめ)とは、人間には明確に知覚できない神(宇宙・森羅万象の摂理)がその背後に隠れている場というような意味になるのではないでしょうか。というのも、小野・矢彦両神社の社叢は「憑(たのめ)の森」と呼ばれてきたからです。そもそも、小野盆地の東に連なる山々は、諏訪大社のご神体で、小野ではそれらを背後側から眺めているのです。