◆小菅の里 案内絵地図◆

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  上掲は、小菅神社里宮・旧元隆寺講堂脇の観光案内板の古い絵地図です。下に掲げたものが現在の絵地図です。
  上掲絵地図は、おそらく昭和期(1960〜70年代)の地理、集落の様子をもとにして小菅の里の地理、とりわけ小菅神社の社殿群や旧元隆寺の遺構群、関連史跡の配置を説明したものと思われます。
  この絵地図のなかで@旧元隆寺仁王門(仁王尊堂)は、明治維新の廃仏棄釈運動で元隆寺の堂宇のほとんどが破却されたのちに、ただひとつ元の場所に残された建物だそうです。17世紀後半(元禄年間に改修)に元隆寺の西大門として建てられた建物で、両脇には金剛力士像が祀られています。現在は仁王尊として祀られているのだとか。
  江戸時代末までは元隆寺西大門だったということで、往時の主参道はこの門をくぐって寺院の堂宇――神社の社殿も含む――に参詣するようになっていたはずです。ところが、明治以降には寺院の堂宇や施設はことごとく解体され、その境内と遺構は集落の家屋敷地や田畑の下に埋もれてしまったようです。
  とはいえ、集落の道を歩きながら村落の様子を眺めると、なかには往時(幕末まで)は元隆寺の小院坊ないし塔頭宿坊ではなかろうかと思しき古民家・敷地がわずかに遠い過去の面影を宿しているようにも思えます。往時は、集落全体が寺院を中心とする修験霊場で、寺領の耕作地と集落――農民や商人、鍛冶屋などの職人が集住した――をともなっていたのでしょう。

  小菅山元隆寺をめぐる記録や絵図などから推定するに、平安時代から室町中期までは堂塔伽藍のなかに五重塔があったようです。ところが室町後期から戦国時代の戦火によって五重塔を含めた堂塔伽藍は失われてしまい、江戸時代前期に元隆寺の七堂伽藍が再建されたようです。
  江戸時代の絵図を見ると、堂塔伽藍のなかで舎利塔は三重塔になっています。おそらく、五重塔としてではなく三重塔として再建されたものでしょう。しかし、明治維新の廃仏毀釈で大隆寺は解体され、三重塔も破壊されてしまったのです。