西条の東隣の地区は東条と呼ばれています。条がつく地名となっている場所は古くからの街集落がある地区の場合が多いようです。ここは大町仁科方面から青木村、塩田平に向かう古道と善光寺道が交差する要所だったのです。 ◆東条川流域の開拓を導いた起点だった村だったか◆ |
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![]() 岩戸集落の西北西には北アルプス白馬連峰を望むことができる |
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![]() ▲養蚕に向けて修築したと見られる古民家 ![]() ▲茅葺屋根だがに南棟側ぼ解雇部を広げ通気を良くしたようだ ![]() ▲全体の構造は伝統的な入母屋茅葺造りを保っている ![]() ▲養蚕のために広い床面積を擁する造りにしたと見られる造り ![]() ▲古民家を活用したカフェ・レストランとなっているらしい ![]() ▲屋根をトタンで覆った茅葺造りの主屋と土蔵が誇る屋敷 ![]() ▲旧庄屋の屋敷:広壮な主屋と醸造用の土蔵が並ぶ この家は屋敷を史跡として大事に保存してきたのだとか。一揆のさいの放火で煤けた壁も歴史的を語る証拠として、修復しなかったという。 ![]() ▲左手前が客殿別棟で奥が醸造用・倉庫用の土蔵群の遺構 |
筑北村の原風景を求めて、役場がある辺りから東条川の谷間沿いに東に進んでいくと、昭和期の懐かしさを漂わせた家並みに出会いました。岩戸という集落です。 岩戸の古民家はどれも相当に広壮で、すでに江戸初期に商家を兼務していた豪農の屋敷――それゆえ村役人を務めた――と見られます。幕末から昭和中期までは、搭乗、西条、青柳、乱橋の各村落では養蚕が盛んだったそうですが、それは家の造りに現れています。してみると、製糸業で栄えた上田方面と連絡する東条川沿いの街道は、繭を買い付け集荷する商人や輸送業者が繁華に往来していたでしょう。
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