西条の東隣の地区は東条と呼ばれています。条がつく地名となっている場所は古くからの街集落がある地区の場合が多いようです。ここは大町仁科方面から青木村、塩田平に向かう古道と善光寺道が交差する要所だったのです。
  青木・塩田に連絡する古道が東条川の源流部の峡谷に入る入り口が岩戸の集落です。


◆東条川流域の開拓を導いた起点だった村だったか◆


岩戸集落の西北西には北アルプス白馬連峰を望むことができる



▲養蚕に向けて修築したと見られる古民家


▲茅葺屋根だがに南棟側ぼ解雇部を広げ通気を良くしたようだ


▲全体の構造は伝統的な入母屋茅葺造りを保っている


▲養蚕のために広い床面積を擁する造りにしたと見られる造り


▲古民家を活用したカフェ・レストランとなっているらしい


▲屋根をトタンで覆った茅葺造りの主屋と土蔵が誇る屋敷


▲旧庄屋の屋敷:広壮な主屋と醸造用の土蔵が並ぶ
 この家は屋敷を史跡として大事に保存してきたのだとか。一揆のさいの放火で煤けた壁も歴史的を語る証拠として、修復しなかったという。


▲左手前が客殿別棟で奥が醸造用・倉庫用の土蔵群の遺構

  筑北村の原風景を求めて、役場がある辺りから東条川の谷間沿いに東に進んでいくと、昭和期の懐かしさを漂わせた家並みに出会いました。岩戸という集落です。
  明治期から昭和中期頃までの時期に修改築されたと見られる広壮で重厚な屋敷が集まっている風景に惹かれて、県道277号沿いの東西200メートルくらいを散策してみました。
  探索するうちに江戸時代から明治初期までこの集落の庄屋と番所役人を兼務していた屋敷に一人暮らししているおばあさんに出会い、屋敷に招待され案内してもらいました。

  この集落は東条川の右岸の尾根の麓の河岸段丘上に位置しています。家並みの背後の尾根は四阿山(標高1387m)山頂から南西に延びてきているもので、東条川が数り出した山麓の河岸斜面となっています。村落の東側は、往古には松本藩と上田藩との境界地帯をなしていました。
  東条川の源流は、青木村の西端の御鷹山(標高1623m)山頂下から始まって、青木峠の西裾を流れ下って岩戸にやって来ます。
  岩戸集落の庄屋が松本藩領の辺境で口留番所役人を兼ねていたのは、東条川河畔の古道が上田藩領と往来する要衝にあったからでしょう。庄屋家はおそらく戦国時代の武士――青柳氏の家臣――で、戦乱が止んだ後に帰農してこの一帯の開拓を指導する郷士だったのではないでしょうか。
  古い時代には、岩戸集落が東条・西条地区の中心部だったのかもしれません。

  岩戸の古民家はどれも相当に広壮で、すでに江戸初期に商家を兼務していた豪農の屋敷――それゆえ村役人を務めた――と見られます。幕末から昭和中期までは、搭乗、西条、青柳、乱橋の各村落では養蚕が盛んだったそうですが、それは家の造りに現れています。してみると、製糸業で栄えた上田方面と連絡する東条川沿いの街道は、繭を買い付け集荷する商人や輸送業者が繁華に往来していたでしょう。
  養蚕で栄えた時代の痕跡は、ことに岩戸集落の広壮な古民家の造りとして残されています。

  集落の古民家のなかでもとりわけ大きな敷地で立派な結構の家屋を擁しているお宅を眺めているとき、この家に住んでいるおばあさんに出会いました。明治初期まで庄屋と口留番所役人を兼務していた家門だとか。今でも残っている主屋、醸造工房だった土蔵群、賓客用の別棟などを含めて8棟も堡損されています。
  松本藩の奉行や代官を休泊させたという客殿の遺構の脇には池を中心とした庭園の跡も残っていて、大きな資産と家格であったことが偲ばれます。土蔵群のなかに西向きの白漆喰壁が黒く煤けている1棟があり、それは、明所初期に発生した農民一揆(騒乱)で放火された跡だそうです。
  屋敷地と東条川の河床とは4メートルくらいの高低差がありますが、昭和中期には、屋敷の庭まで水が押し寄せるような東条川の氾濫があったそうです。


今は住む人もいなくなり荒廃し始めている


旧庄屋邸の入り口門柱