乱橋諏訪神社は、善光寺道沿いの間の宿の街並みや村落から300メートル北西に離れた場所に置かれています。集落からは少し距離があるのです。農業用水となっている別所川の畔の平坦な低地に位置しています。 諏訪大社は、諸町時代後期から江戸時代にかけて、用水路建設や水田開拓のために近隣集落住民を連帯・結束させるために祀られた場合が多いので、別所川河畔にあるのは独特の意味合いがありそうです。


◆諏訪神社、阿弥陀堂など・・・祈りの場◆

 
諏訪社の境内があるのは、乱橋で最も標高が低い場所で、かつては低湿地だったようだ



▲別所川の谷底の平坦地に神社がある


▲拝殿の背後に丘が迫り、脇にはケヤキの大木が立つ


▲拝殿は昭和末期に修築されたか


▲境内の西端に神楽殿がある


▲明治末期に合祀されたらしい社石祠が並ぶ


▲旧街道の北の丘の上にある大門の集落


▲県道30号脇の尾根裾にある阿弥陀堂


▲お堂の前に集められた石仏群

◆水田開拓の起点に祀られたか◆

  諏訪社は別所川と乱橋集落を流れる支流の沢とが合流する場所にあります。別所川は麻績川の支流で、乱橋の北方にある、岩殿山と富蔵山とのあいだの谷間を流れて麻績川に合流しています。
  諏訪社は、立峠ならびに風越峠の直下の谷間から流れてくる別所川と支流が合わさる場所で、古い時代には低湿地帯だったと見られる谷底の平坦地に位置しています。
  たいていの場合、とくに山間では、集落の神社は――水害を免れるように――高台や尾根など高い場所に祀られているので、非常に珍しい立地環境にあります。


拝殿北脇の石塔と石祠

  信州では多くの場合、諏訪社は江戸時代の中頃まで、水田を中心として農村開拓をおこなったさいの村落の中心として勧請創建されたようです。村人がケ周して灌漑要用水路をつくったり、水田を開墾したりするうえでの「まほろば」となったのです。
  というわけで、なぜ乱橋ではここに諏訪社があるのかとう謎をめぐって考えているうちに、こういう推理が浮かんできました。
  この一帯は年間を通じて降水量が少ない地方なので、稲作のための水源はきわめて乏しかっただろう。だとすると、稲作ができる水田圃場を開拓できるのは、沢が集まる低湿地とその周りしかなかっただろう。溜め池を建設するにしても水源が限られているので、江戸時代の後期までは、この辺りの湿地帯しか可能性がなかったのだろう、と。


ケヤキの根元には大山祇社の石塔

  ところで、立峠の南側には、虚空蔵山を中心に古代から山岳信仰や密教修験の拠点が開かれていたので、立峠や風越峠のこちら側(北側)の山腹、高台にも寺院や神社があったはずです。
  ところが、善光寺街道沿いで乱橋は間の宿が形成されるほどに発達した集落であるにもかかわらず、今では小堂を除いて寺院は――跡地も――ひとつもありません。住民に尋ねたところ、この集落の住民は碩水寺の檀家となっているそうです。
  おそらく明治維新にさいして松本藩は――明治新瀬府への帰順が遅れたために背反を怖れておもねって――、ことのほか厳しく廃仏毀釈(寺の破却)をおこないました。乱橋は間の宿として宿屋の経営が許されたので、天領ではなく松本藩領だったはずで、松本南によってこの村落の寺院はことごとく壊されてしまったようです。

  しかし、幕末までは間の宿に相応した有力な寺院があったはずです。旧街道の東側の高台に大門という地区がありますが、ここにはおそらく有力な寺院があって、門前集落があったはずですが、いまは跡形も見あたりません。幕末までは神仏習合の格式だったので、有力な神社もあったはずですが、その痕跡も見あたりません。
  諏訪社から東に300メートルくらい離れた丘の裾に小さな阿弥陀堂がありますが、これは地元の住民の話によると、往古から西澤家一族が保有する氏寺だそうです。集落全体の信仰の場ではないそうです。