善光寺街道は険しい山岳のなかを往く難所続きの道ですが、なかでも立峠は並大抵の険路ではなかったようです。往古の峠越えの道は、稜線を南北に切り割る形で通っていたそうです。
  峠を北に越えたところに位置するのが乱橋の集落で、坂の街です。峠越えの準備のために、あるいは峠越えの疲れを癒すために旅人はここで休泊したそうです。


◆隠れ里のような山峡の集落◆

 
旧善光寺道沿いの集落家並みの背後、右手の尾根の奥に立峠がある



▲棚田地帯のなかを立峠に向かってのぼる旧街道


▲田畑のなかを往く農道のような旧街道


▲すり鉢の底湖に降りていくような急傾斜の旧街道


▲旧街道は拡幅舗装してあるが、幅2メートルもない


▲旧上町の屋敷地は階段状で石垣に支えられている


▲家並みのなかには無住となって荒廃している家屋も目立つ


▲県道との合流地から下が旧中町となる


▲高麗門がある広壮な古民家は旧村役人の屋敷だったか


▲昭和中期までは商店が並んでいたかもしれない家並み


▲現本町はかつては下町と呼ばれる街区だったらしい

 本町(旧下町)と中町とのあいだには町家がなくなったように見える空き地がある。昭和期には商店などが混じった家並みが続いていたようだ。


過疎化が進んでいるが、早春の穏やかな山里の風景

◆険しい峠道の下の穏やかな農村◆


街道脇の田畔にたつ双体道祖神と庚申塔

  便利な自動車や電気製品を利用して暮らす現代文明のなかに浸りきっていると、筑北村の旧善光寺街道沿いの集落を歩くと、人間にとっての生活の質や豊かさの意味を鋭く問いかけられているような気がします。
  山峡のなか、小さな盆地の村とは言いますが、集落のなかの旧街道を峠に向かってのぼっていくとき、私はお椀のなか、すり鉢のなかにいるような気がしました。乱橋の集落はお椀の縁のような尾根に取り囲まれているのだ、と実感しました。
  そんな険阻な地形の山峡に何百年も前から人びとは生活の場を求めて田畑を切り開いてきて、峠を越える街道を開削し、間の宿と呼ばれるほどに発達した街集落をつくってきたのです。


旧上町を往く、15度以上の傾斜の急坂の道

  さて、立峠から北に向かって降りてきて最初に出会うのは乱橋上町の家並みです。急坂の小径に沿って家々が並んでいます。石垣で扶持を支えられた階段状の敷地が棚田のように並んでいます。
  谷間を流れ下ってきた沢は上町の家並みのなかで、2メートルほどの深さの渓谷の底を流れるようになり、岸壁には石垣が施されています。旧街道は幅の広い自動車道と出会い、そこから中町の集落となります。
  道路の傾斜はずい分緩やかになって、かつては商店街だったであろう家並みが続き、やがて谷間の底で旧街道は県道303号と交差します。この辺りは現在では本町という街区ですが、往古には下町と呼ばれていたようです。今では道沿いの家屋の数もめっきり少なっています。
  旧善光寺街道は乱橋の街並みを過ぎると、そのまま北に進み、往く手に横たわっている尾根をジグザクに越えていきます。この先には中ノ峠があって、さらに2キロメートルほど進むと西条の集落に行き着きます。西条は東条川の扇状地にあります。


風越峠から流れ下る渓流は別所川

  乱橋は、山間の丘や険阻な尾根に取り巻かれていて、街道が通じていなければあたかも隠れ里のような地理的環境にあります。東条川河畔の開けた地形にある西条や東条からすると、尾根の向こうに人里が営まれているようには見えません。
  しかし、古くから集落と田畑が開かれてきた村落があるのです。
  乱橋から北におよそ5キロメートルの岩殿山系や富蔵山系にはいたるところに飛鳥時代から山岳信仰の拠点が開創されていました。遅くとも鎌倉時代には、この集落が形成されていたものと見られます。善光寺道のもとになった古道は平安時代に開削されていたので、立峠の北側の休泊・中継拠点としての小村がもとになったのかもしれません。

  乱橋が間の宿と呼ばれるほどに発達した街集落になったのは江戸後期ではないかと見られます。そういう古い歴史をもつ村なのですが、今は古い時代の家屋は見当たりません。年代を経た和風の建物でも、昭和中期に改築されたと見られる造りの家屋です。その頃までは旧街道沿いに茅葺造りの家並みが残っていたのではないでしょうか。




下町から中町にかけての旧街道沿いの家並み