上町は寺町で、浄国寺の北側に勝楽寺、常徳寺があります。さらに北隣に、伊勢社と御師御旅屋(宿所)がありました。ところが、明治後期に伊勢社は中町に移転し、御師の宿所もなくなり、福島宿の祈りの場は大きく変貌しました。 宿場町の歴史を探るために上町の寺院や史跡を訪ねてみましょう。
  ところで、宿場町の南端近くに寺院や神社を集めて配置したのは、そもそも軍事制度として発足した街道宿駅制度における防衛上の理由からでした。


◆浄国寺を訪ねる◆



街道西脇に浄国寺の冠木門が立っている。そこから参道が本堂まで続く。

▲2体の子育て地蔵尊は呑空上人の遺徳を伝える


▲本堂は1780年に再建されたものだという


▲参道から街道を振り返る。向かいは旧本陣丸山家の土蔵と長屋門。


▲本堂北脇には小さな庫裏または住居がある


▲本堂南側の妻面の様子


▲境内の様子: 右端の参道脇に納屋がある。耕作用具の倉庫か。


▲境内の様子: 街道から続く石畳参道と納屋

  浄土宗の無衰山浄国寺は、上町の街道を挟んで、本陣丸山家の長屋門の真向かいにあります。街道から参道への入り口には冠木門が立っています、
  この寺は、こから4.5キロメートルほど南にある綿内の正満時寺の第2世住持、呑空上人の隠居寺として1602年(慶長7年)に創建されそうです。現在の本堂は1780年(天明年間)に再建されたものです。本道の内陣中央には阿弥陀三尊像、その両脇には善導大師と法然上人をを祀り、典型的な浄土宗の須弥壇配置になっているのだとか。


本堂向拝下の入り口の様子

向拝虹梁と柱飾の獅子の彫刻がみごとだ

  寺を開基した呑空上人の僧名は、回国修行中の上州太田大光院の呑龍上人と出会い、上人から「呑」の一字を与えられたものと推定されるとか。その後も浄国寺は大光寺との縁が続き、1883年(明治16年)にはこの寺の境内に呑竜堂を建てて呑竜上人像を祀ったそうです。
  ところが、1896年(明治29年)に千曲川の大洪水でお堂は大破してしまい、像は本堂に移されて保存されました。
  ところで、冠木門の裏手にある2体の石像は子育て地蔵です。この像は、呑空の師、呑龍和尚が人びとに命の大切さを説き、自らも孤児を育てたことにちなんで彫像されたものだとか。人びとは地蔵尊を拝んで、子育て呑龍と呼ばれた上人の遺徳を偲んだそうです。


本堂前のアカマツは樹齢100年ほどか

  今は小ぢんまりした境内です。街道に面した冠木門の下から本堂まで石畳参道が続いています。この参道の北脇には明治以降に建てられたと思しき古びた納屋があります。今は無住の寺ですが、かつては住職家も農耕をしていたということでしょうか。
  境内は、納屋を過ぎると南北30メートル、東西20メートルほどの長方形の広場となります。往時はここで縁日など寺の催事がおこなわれたのでしょう。本堂は間口・奥行き各3間半ほどの小ぶりな造りで、天明年間の再建になるとか。それから250年近く経ています。その後いく度か修築が加えられたようです。
  探訪したときは、早春(3月半ば)の午前の陽射しが降り注いで暖かでした。本道の濡れ縁に腰かけてしばらく時を過ごしました。

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