上の絵図は諏訪大社上社本宮の東参道鳥居の脇に掲示されている「明治維新前の諏訪大社上社と神宮寺の想像復元図です。
  明治維新は、幕藩体制と徳川幕府の権威を解体するための政治=軍事革命でした。そのため、旧レジームを破壊するために明治政府は過激なほどに破壊的な政策を遂行しました。
  1968年の明治政府の神仏分離の太政官令は、同時に廃仏令をともなっていました。つまり、宗教的側面において徳川幕府の統治の片棒を担いでいた寺院の権威を破壊し、大和王権系の神社と国家神道イデオロギーの優越を確立することで、新政権の正統性を打ち固めるための政策でした。
  おりしもこのとき、幕藩体制の身分制度や商工業の規制のもとで呻吟し苦境にあえいでいた一般民衆もまた、幕末の混乱や貧窮のなかで憤懣の向け先を求めていました。そのため、過激化した民衆の一部は明治政府の廃仏毀釈運動を積極的に担い、寺院破壊を率先しておこないました。
  新政権もまた廃仏運動を督励するために各地に総督を派遣し、廃仏毀釈運動を煽動・誘導したのです。一般民衆は新政権が提唱扇動する運動に加担すれば、自分たちの権利の拡大が認められるかもしれないという期待や忖度もあって、運動は過激化しました。
  諏訪大社上社本宮では神宮寺が破却され、多くの塔頭院坊とともに五重塔も壊されてしまいました。
  しかし、民衆運動の組織化や急進化が進むことを恐れた政権は、ある程度廃部運動が進んだ段階で、廃仏令を撤回し、民衆の運動を抑圧・弾圧するように方向転換しました。一般民衆の政治参加はこの段階では望むべくもなかったのです。多くの民衆は、旧権威の解体運動に動員され、利用され、最後には見捨てられ弾圧されてしまいました。
  これは革命には不可避的に随伴する事態でした。信州では一般民衆が参加した廃仏毀釈運動が盛んになって過激化したため、数多くの寺院の堂塔伽藍が破壊されてしまいました。有力な神仏習合の霊場だった戸隠も飯山小菅もしかりです。
  ことに松本以南の中南信では、三重塔や五重塔などの文化財がことごとく解体されてしまいました。現在、信州に残されているのは三重塔だけで、それは佐久、上田小県、大町以北に9基、南信では駒ケ根市の光前寺の1基だけです。幕末までは神社と寺院が結びついていて、三重塔や五重塔、伽藍があるのはごく普通だったのです。