長沼宿上町~栗田町の街道と集落 鳥観図


■江戸時代の長沼の景観 2次元ディオラマ■
   長沼宿(上町)と栗田町(寺町)が江戸時代にどのような風景だったのか、長沼の取材を始めてから3年間、私はこの疑問とそれへの答え(仮説・試論)を考え続けてきました。
   信州の有力な諸藩は、幕府直轄の中山道はもとより、北国街道と宿駅などの建設にさいしては、品位と格式、旅人への配慮を相当に重んじていました。
   街道の中ほどには宿場用水が流れ、その畔には野草はもとより、ヤナギや松、ツツジなどが植栽されていたはずです。明治維新でこれらの仕組みは完全に壊されて、多くの宿場用水は「どぶ溝」のようになってしまいました。
   往時の宿場用水のあり方と傾向は、今でも残っている三州街道小野宿、北国街道西往還(善光寺街道)の郷原宿などの遺構を観察すると実感をともなって想像できます。中山道の芦田宿西手前の笠取峠の松並木の遺構も、すばらしいもので、往時はどれくらい美しかったか、考えただけでため息が出ます。

   私たち日本人は明治以降に大工業化を達成し、便利で快適で豊かな経済生活を獲得しましたが、それと引き換えに失ってしまったものもあります。江戸時代には主要な街道の宿場街は非常――現代人が息をのむほどに――に美しい景観を保っていたものと見られます。
   そういう視点で、長沼宿(上町~栗田町)――現在の大町区――のありし日の姿を想像し続けてきました。その試みが以下に掲載する絵図です。
   林光院の横に東照寺があって、西厳寺という巨大な寺に付属する塔頭支院群があった頃を想定しました。その頃、現在、林光院から国道18号の大町交差点に連絡する道はなく、あっても細い農道で、林光院の山門前には石垣の桝形があって、街道柄を往く旅人はそこで直角に南に曲がるしかなかったのです。
   西厳寺は広大な寺領・境内を保有する有力寺院で、往時、塔頭支院は10を超えていたと想定しています。
   長沼というところは、それだけの有力な寺院が位置する特別の場所だったのです。それは、善導寺や玅笑寺についても当てはまります。

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