◆小諸城の三之門 正面図 (1742年以前の意匠)◆

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出典:小諸市誌編纂委員会編『小諸城城郭絵図』1991年

  現存の小諸城三之門は寄棟造りの屋根ですが、これは1742年の中沢川の氾濫でこの門が破壊された後で再建されたものです。それ以前は入母屋造りでしたから、現存のものよりもう少し重厚感があったと思います。
  上の図のように、三ノ門は矢倉門で、侵入した敵を上から銃や弓で撃退するための防御構造になっています。敵がこの門の前に到達するまでには、いくつもの桝形小口などの防御障壁があるため、敵側の軍勢は分散させられ、少数になっているものと想像できます。
  なお、別掲の縄張り図では、大手門から山の門までの経路や構造は意図的に曖昧に描かれているようです。あるいは、描いた者の記憶が混乱するほどに複雑だったために、正確な絵図面が描かれなかったのでしょう。

◆薬医門、高麗門 足柄門をめぐって◆

  さて、高麗門は薬医門と同じ基本構造になっています。その意味では薬医門の一形態、変種と見ることができます。
  高麗門では、冠木の上に乗せる切妻屋根を小さくして門周りの視野を広げ、両側の控柱の上に小さな切妻屋根を配して、上から見ると屋根が「コの字」をなしています。このような建築形状は、城郭や領主居館の場合には、防衛上の観点から、近隣の櫓などからの監視にさいに門周りの死角を小さくするためにつくり出されたようです。
  また寺院などの場合には、大きな屋根を重厚感をなくして、簡素な形状にするためだといわれています。
  ところが高麗門には、建築構造上の強度を高め、装飾性や重厚性を増すために、冠木・鏡柱の前後両側に控柱を設置する造りもあります。
  小諸宿の光岳寺の惣門がこれに当たります。この門は、もともとは小諸城内にあった足側門が明治期に光岳寺参道の入り口に移築されたものです。城内の足柄門だったときから、このような形状だったのでしょうか。移築のさいに控柱の付加はなかったのでしょうか。
  高麗門は周囲の櫓や石垣と結びついて桝形小口の一角を構成する場合があります。その場合には、防衛上の観点から構造を単純化するために、前後両側に控柱を設置することはあまりないように思えます。小諸城内でも今と同じ形状だったとすると、防衛上の機能は期待せずに、威厳格式や装飾性を高めるためのものだったのでしょう。
  もっとも、千曲川とその支流がつくった浸食地形を利用して築城された小諸城は、城下町よりも低い位置にあって、桝形小口や馬出など通常の防御構造がなく、かなり異なった防御施設を備えていたようです。
  とはいえ、小諸城の縄張り図を見ることができないので、今のところ単なる空想にすぎませんが。