木曾川への合流地辺りで伊奈川の左岸(西岸)を大島、右岸(東岸)の尾根裾を橋場と呼んでいたそうです。須原では愛宕山または城山と呼ばれるこの尾根は、橋場側からは岩出山とも呼ばれていたとか。 尾根の南西向きの懸崖の岩窟に観音を祀ったことで観音堂が始まり、やがて崖縁に張り出した懸け造りの櫓台の上に寄棟造の小ぶりな仏堂が建立されて今にいたっているそうです。


◆馬頭観音を祀る懸崖上の仏堂◆



橋場の岩出山と呼ばれる尾根の中腹に懸け造り櫓台の上に美しい観音堂がある

観音道の背後の様子。今では岩壁から離されたお堂の内陣に本尊がある。


▲岩壁の前に張り出した懸け造り櫓台の上にお堂が設えられている


▲伊奈川橋を渡って橋場集落に出てきた道路


▲崖下の道から見上げると、コンクリート土台の上に支柱群が並ぶ


▲林道を少しのぼると山号石段がある


▲この狭い石段をのぼっていくことになる


▲崖の岩壁を石垣で補強した土台部の外側に懸造り櫓を組んである


▲本堂前の舞台は、清水寺の舞台を小ぶりにしたもの


▲お堂の正面の庇と扁額


▲石段最上部に近隣から馬頭観音像を集めて並べてある


▲お堂前の舞台から伊奈川対岸の集落を眺める


▲石段参道をのぼり切って振り返ると


  古代から中世にかけて、伊奈川を遡上して大野に至り、そこから与川を経て野尻または三留野の集落をめざす古道があったそうです。橋場は、そこを往く山伏や修験僧が行き交って賑わっていたものと想像できます。ここに有力な密教系寺院あるいは禅刹があって、多くの修行僧や参詣者を集めていたのかもしれません。

■馬頭観音を祀った経緯(説話)■


懸造りの櫓と舞台を見上げる

  ここに馬頭観音が祀られるようになった出来事は、橋場村の馬沓うまぐつ(馬用の草鞋)をつくる謙虚な老職人と騎乗旅の武士との出会いだとか。
  往古――西洋風の蹄鉄がない時代――には馬の蹄を護るために足に草鞋を履かせました。江戸時代のあるとき、馬沓を買おうとした騎乗の武士が職人のもとを訪れましたが、4つ全部の沓の用意が揃っていなくて半端な沓装着になってしまいました。馬沓職人は自分のうかつさを深く恥じ、急いで沓をつくるとただちに出立した武士を追いかけて、馬の脚すべてに沓を履かせました。
  老職人は自分のうかつさを恥じていたので、武士から代金を受け取りませんでした。職人の心ばえに感銘した武士は、お礼として「馬頭観世音菩薩」と筆書きした木片を渡し、「それを木札として信仰すれば霊験あらたかだ」とに言い残して去っていったのだとか。
  礼拝しているうちにやがて木札は輝き始めたので、老職人は村人ともに岩出山の岩窟に祀って篤く崇敬したことから、観音堂の起源となった・・・という説話が伝えられています。

  さて、古代に開削されたという木曾川東岸の古道は、伊奈川を大野までのぼって、それから与川の里に向かったと伝えられています。平安時代から伊奈川沿いの尾根や高台には、密教修験の寺院や神社が建立されていたと見られます。木曾古道や中山道には数多くの修験僧や山伏たちが日常的に行き交っていたでしょう。
  神仏習合の伝統のなかで、修験の拠点となる寺社には諸種の観音菩薩を祀ることが多かったはずです。そして、街道の輸送・交通では馬が用いられてきました。旅の安全には馬の安全が欠かせない条件で、斃れた馬は篤く祀って葬られました。こうして、馬頭観音信仰も広がったでしょう。


崖縁をのぼる狭い石段参道


左端は石段脇の大ケヤキは秋の紅葉で有名だ

■近隣の馬頭観音を集めて合祀■

  山路を往く信州の中山道では、街道脇の道標として石仏が1丁(108メートルごと)ごとに奉納され立てられていました。その多くが馬頭観音でした。1970年頃まで、街道沿いの各集落では各住戸ごとに担当箇所が割り振られ、村落の街道の傍らに石仏を奉納することが慣習的な義務になっていました。
  馬や牛は農耕でも利用されましたが、街道交通の有力な手段として用いられていて、人びとの日常生活にごく身近な動物(役畜)でした。馬の供養は馬頭観音信仰と結びつき、牛は牛頭天王信仰と結びついたようです。ことに寺社の祭礼行事と馬の競り市は結びつき、毎年の馬市には近郷近在からはもとより、さらに遠方からもたくさんの人びとが訪れたそうです。
  あの騎乗の旅の武士と馬沓職人との邂逅の物語は、そういう背景からつくられ、伝承されてきた説話なのでしょう。馬頭観音を祀る岩出の岩窟は、説話よりもさらに古い時代に建立されたものと考えられます。
  また、江戸時代の寺社制度や仏堂の運営方法から見て、この観音堂が単独で孤立してあったとは考えにくいことです。小さな堂庵を庇護し管理する寺院があったはずです。どこか近隣の有力な寺院に帰属していたものと見られます。
  しかし、明治維新のさい、明治政府の廃仏毀釈政策によって。民衆を威嚇的に扇動・動員してかなり強引に寺院堂宇が破却されたことから、史料や文物とともに、木曾路でも多くの寺院が廃絶されてしまいました。
  岩出観音堂に関連する寺院もそういう運命を辿ったのでしょう。

  ところで、江戸時代には崖の岩窟に観音像あるいは木札を安置して祀っていたようですが、現在は、岸壁から離して石垣土台と懸造り櫓を施し、その台上に観音堂を建立してあります。おそらく昭和期の建築技術に依拠した造りです。
  境内参道脇には30基ほども馬頭観音像が集められて祀られています。これは、旧街道の拡幅工事や耕地整理などのさいに撤去した石仏をここに集めて置いたものと見られます。すでに述べたように、旧街道には1丁ごとに石仏が置かれていました。したがって残念ながら、今日の中山道遺構の道脇には馬頭観音などの石仏を見ることができません。
  この記事を読んだ方は、木曾の中山道歩きのさいに、ほぼ100メートルごとに石仏が道しるべのように立っていた風景を想像してみてください。


小ぶりだが均整がとれた美しい観音堂


■西側に隣接する神社がある■


観音堂下の道路から西に上る石段参道がある


柱が垂直に立って互いに平衡ではないが、神明式だ


▲蓋殿は切妻づくりなので、伊勢社(神明宮)だと見られる


  観音堂の西隣の段丘上に小さな神社があります。社号が表示されていません。
  やや破格の神明式(伊勢社に模した)木製の鳥居があり、その奥に小さな社殿(蓋殿)が置かれ、なかに本殿と思しき古い祠(神殿)が祀られています。しかし社号はわかりません。
  本殿を覆う蓋殿は切り塚づくりなので、伊勢社(神明宮)に似つかわしい結構です。


かなり古びた本殿で、屋内の神棚の社殿のようだ

  江戸時代の寺社制度では、神仏習合の格式によって寺域内に神社が置かれ、寺院が別当寺として神社を庇護管理する役割でした。
  してみると、この一帯または近隣にそこそこの規模の寺院があって、漢音道やこの神社を庇護管理していたものと考えられます。神社と観音堂がある岩出山と呼ばれる尾根の南側は険しい断崖なので、あるいは密教修験の寺院があったかもしれません。
  ところが、木曾路では明治政府の扇動や教唆のもとで廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたので、関連する寺院が記録や文物も残さずに壊されてしまった可能性は大いにあります。そして、橋場の集落は戸数の多い栄えた村落だったかもしれません。

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