江戸時代の須原宿東端の街道の様子



現在の須原宿西端の様子(グーグルマップ航空写真)


◆須原宿の東端 江戸時代の中山道はこうだった◆


  一番上の絵図は、現地の地形や中山道の遺構・痕跡を探索して、須原宿の東端について江戸時代の中山道や村道、家並み、桝形がどのように配置されていたかを想像復元したものです。

  絵地図の下に掲載したグーグルマップの航空写真は、現在の姿を示しています。上の絵地図と比較して、どのように違っているかを見てください。

  現在、旧須原宿の表通りとなっている中山道遺構は県道265号になっています。県道は、かつての宿場東端の桝形跡を越えて北東に延びていて、須原駅前を通って、河岸段丘下の国道19号に連絡しています。しかし、これは明治時代から昭和中期にかけておこなわれた道路建設――地形の大がかりな改造――の結果です。ありがたいことに、今、通行はものすごく安全になりました。
  その代わりに、往古の中山道と須原宿の面影は失われてしまいました。
  ところが江戸時代の中山道は、今では高札場跡の立札が立っているところのガードレイルの端で河岸段丘崖を降りて進む細道になっていました。当然、今は舗装道路となっている県道ができる以前は、ほぼ同じ経路で作場道が通っていました。作場道とは、宿場の住民が田畑の耕作に出かける細道です。
  最も東北単にある桝形石垣と高札場との間に木戸があったと思われますが、ここでは石垣の脇にあったものと想定しました。

  2段の河岸段丘崖を降りて木曾川河畔を往く中山道は、現在の国道19号の位置にあったと推定できます。旧中山道遺構は国道に下に埋もれてしまっているようです。
  往時、ここから上松宿まではおよそ12キロメートルほどの道のりがありました。木曾谷の難路を歩き通すのは大変だったはずです。そこで、須原宿から上松宿までの街道沿いにある大きな集落は「間の宿」の役割を担っていたでしょう。