■麻績宿の海善寺■


▲田畑のなかにある海善寺。背後の道は善光寺街道。

▲境内と古びた墓地

▲無住になってから長い年月を経ているようだ

▲ お堂の扉が開くことは歩くのはだろうか。戦国時代には麻績城主服部家の菩提寺だったとか。しかし、五輪塔と多宝塔は鎌倉時代の作と見られている。

  善光寺街道(国道403号)は麻績村本町交差点から北東方向に転じて猿が馬場峠に向かいますが、その道の下の田畑のなかに海善寺があります。
  『麻績村誌』によると、もともとは真言宗の上野山光明院戒全寺という寺院が裏山の中腹にあったようです。開山は室町から戦国時代にかけてだとか。16世紀のはじめに裏山が崩壊して寺の堂宇も倒壊してしまったために、現在地に移転したそうです。
  海善寺は古くから麻績神明宮との結びつきが強く、神宮寺としての性格をもっていたようです。お堂・境内から神明宮まで続く小径があるそうです。しかし、明治維新の廃仏毀釈政策で神社と分離され、堂宇も破却されたようです。



  というわけで、今では小さなお堂が残されているだけですが、この近辺には大門、堂脇、寺田などの地名が残っているので、往時は相当に規模の大きな境内と七堂伽藍を保有していたものと見られるそうです。


西脇からの様子


■聖山山麓の西光寺■


▲境内入り口の石碑「西光寺」と刻まれている

▲石段から参道が始まる

▲樹林に覆われた参道

▲端正な造りの本堂
  聖山山麓の果樹園のなかを福満寺に向かってのぼる途中に「山寺」という地籍があります。そこを通る小径の脇に珠月山西光寺という小さな寺があります。

  境内は樹林に覆われていて、うっかりするとそこに陣があるとは気づかずに通り過ぎてしまいそうです。
  改題の入り口には「西光寺」と刻まれた石碑が立っています。枝葉が鬱蒼と茂る木々のあいだの参道を抜けると、寄せ棟造りの端正な本堂に行き着きました。



  『麻績村誌』によると、総当主の禅寺で、法善寺の末寺だということです。

  ところが、開基や開山については史料の記述が錯綜していて、正確なところは不明です。

この道をのぼると福満寺にいたる


■築北村 笹命山岩井堂■


▲山腹斜面にある岩井堂

▲世界境内に並ぶ石仏

▲西脇からお堂を眺める

▲お堂の前の小径からの眺め

                   お堂の内部の様子

  笹命山岩井堂は現在、築北村坂井古司の地にありますが、もともとは麻績村の麻績川河畔にあったそうです。明治期のはじめに麻績川の氾濫で流失したことから、河畔の山腹(現在地)に移されたようです。近くには古い伊勢社があったとも言われているので、岩井堂が写される前から観音堂があったのかもしれません。

  本尊は馬頭観音で、信濃三十三蕃観音札所の第三番寺なのだそうです。
  お堂の下の公園駐車場の説明板では、源義経の家来佐藤継信が鎌倉幕府軍に追われて奥州藤原氏を頼って逃げ延びようとしたときに、この地で愛馬「磨墨(するすみ)」が急死したたため、地元の人びとにその供養を頼んだという伝説が記されています。
  堂内には、その馬の像と歯が秘蔵されているのだとか。



  馬の霊を祀る場所ともなった馬頭観音に似つかわしい出来事の伝説です。
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